みらくるについて

好きなダンスを「サーカス」で仕事に

音楽がかかると、後頭部の奥の方で何かスイッチが入るような感覚に襲われ、目の前の景色一変するような時がある。

即興で踊る時は、自分が動いているけど、自分ではない誰かが自分を動かしているような、そんな感覚になる時さえある。

今回は好きなダンスを「サーカス」で仕事にするまでの、経緯をお話しします。

いつからダンスを始めたか?

小学生の時から地元のモダンバレエ教室に通い、中学の3年間は、創作ダンス部に所属。そこは、中高一貫校でバリバリの体育会系の部活で、一週間に4回の練習があり、大会前はお昼休みを含め、毎日練習するという熱烈体育会系の部活だった。

1年だけ行った青山学院女子短期大ではチアリーディング部。多摩美ではベリーダンス部に所属、とダンス三昧の人生を歩んできた。

中学ダンス部で得た理不尽マイルドフィルター

中学ダンス部の上下関係はとても厳しく、先輩が前を通るときは、先輩が通り過ぎるまで待機し、「お疲れ様です」を言い続けたり、炎天下の体育館の中、先輩が水を飲みに行って良いと言わないと飲みにいけない。

先生に、広がってストレッチをしなさい。と言われた後、先生がいなくなった途端、先輩に「固まって縮こまって座って」と言われたり、結構劣悪な古き悪しきジャパニーズスタイルな環境に身を置いていた。

悪法も悪法なりという、女子校ならではの目には見えないルールがあって、デメリットしかないのに、「先輩」という格を誇示するための変なルールが多々あったのを覚えている。

それに耐えられず憤慨して退部した子もいたが、私は踊れればなんでも良い、という心臓に毛が生えた精神で3年間をくぐり抜けた。

しかし、その謎のルールや、悪法も悪法なりという環境にいたからこそ、「理不尽」に対して、かなりの耐性がついていた。

それが、サーカスという特殊空間をマイルドフィルターで見れるきっかけになったことは間違いない。

サーカスの上下関係

サーカスの環境にも、厳しい上下関係はあった。そしてサーカス独特の「理不尽」もあったが、そこには相手を思いやる愛があって、必ず理由があった。ルールはあくまでも命を守るための信頼を築く。というとこにあったため、多少キツイこと言われても、まぁ自分が悪いからしゃあねぇな。と納得できるものだった。

大学卒業時の就職活動

「非日常を仕事にしたい」という気持ちで、テレビ局や新聞社、ウェデングプランナーを中心に就職活動していた大学3年生。

大学3年生の秋頃には、都内ホテルのウェディングプランナーの内定をもらい、4年生の1年間は、内定先の会社へ、月1回のインターン研修。

卒業間際にみた木下サーカスの舞台に衝撃を受け、ホームページを見ると団員募集の記事を発見。1度きりの人生、ダメもとで受けてみる。

しかし、舞台パフォーマーとして受けるのは忍び難く、ダンスは好きだったがアクロバットなことは一切できない私は箸にも棒にも引っかからないだろうと、営業職で申し込みをした。

その後、合格の通知を頂き、営業職につくも、やっぱり私も舞台に立ちたい!挑戦したい!と社長にお手紙を書き、舞台に転向させていただけることに。

私にとってダンスとは

私にとっての喜びはダンスであり、自己表現であり呼吸と同じだ。

家で踊っていても一銭にならないが、舞台という場所では付加価値が生まれる。

スポットライトという名の美性補正のフィルターと、3次元の世界に宙吊りしてくれる舞台装置。芸の対価として給料が払われる。

もちろん芸が不調なら、舞台をおろされる。その時は情けなくて悔しかったが、原因が何なのか自分の身体を徹底的に見直すきっかけにつながった。練習に根気よく付き合ってくれた先輩には感謝しかない。

サーカスの訓練って大変でしょう。と聞かれた事があったが、訓練自体はとても楽しかった。

自分のレベルアップのための時間だとわくわくしたし、今はできないけど、「近い未来にできる自分」を想像するだけで嬉しくなった。何より、表現は私の呼吸。

私自身の呼吸、生存にお金を払ってくれる会社、そしてお客さんには感謝しかなかったし、芸で恩返ししたいと5年間舞台の上で自分のできることをし続けた。

今は舞台の上にはいないけど、表現することはこれからも、ずっと続けていきたいと思う。そして、これからも、踊るように呼吸していきたい。

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